ちくわぶ

どすこいちゃんが空を制圧する話。

物語の起伏を読み取れない話

電子書籍が苦手である。

電子書籍が苦手な理由はタイトルの通り。

 

物語の起伏をわたしは進捗のパーセンテージから読み取ってるらしいことを最近自覚した。

起伏の読み取りやすさとしては、漫画>小説>映像の順で、映像作品の中でもクール作品と劇場作品でまた変わる。漫画は連載作品が多く、完結していない状態のものを読むことに慣れているので読めるようにならざるを得なかったのではと思われる。小説作品はシリーズ物でも一冊(もしくは上下巻)に起承転結がまとまっていることが多いために進捗で読んでしまうのだと思う。

電子書籍が苦手なのは漫画作品、小説作品問わず共通で、つまりわたしが読んでいるのは"物語"ではなく"本"そのものに近いのではないか。

昔から、その一冊の厚さと現在読んでいる箇所が前半なのか中盤なのか後半なのかを常に計りながら本を読んでいた。

読んだページ数と残っているページ数を常に比べ、読了ページ数が残ページ数を越え、手に持つ本のバランスが崩れていくのが好きだったように思う。

電子書籍で読むとその快感がない。全体像が判らないまま読み進めていくのはとても怖い。手探りで闇の中を進むことを強いられているような感覚さえする。紙の本で、本自体の厚さと字のサイズを見て、その物語の総量をある程度把握した上で"現在自身が立っている箇所"を認識しながらでないと読み進められない。

この感覚は物語の起伏が判らないこととはまた別の話であるようにも思う。

しかし、総量と進捗を把握し、所謂"佳境"を、話の展開以外の部分でも分析することがわたしの読書感覚を助けていたことは確かである。

 

映像作品に対しては似たような感覚と非なる感覚どちらも持っていて、基本的に映像作品が苦手だ。特にクール作品。劇場作品は2時間前後でひとまとまりになっていることが多いため、進捗を把握しやすく、クール作品に比べると苦手意識がない。映画館のことを好きなこともそれを助けていて、映画館での映画鑑賞は好きだ。

クール作品でも、昨今だと「○○は○クール」という情報はありふれていて、知ろうと思えば勿論把握出来る情報ではあるのだけど、そこまでの熱量を持ってまでしっかりテレビ前で作品を見ようと思えない。そもそも劇場作品の対義語がクール作品で伝わるのかさえ判らないし、劇場作品とテレビ放送作品が対義語という関係性なのかも判らない。

 

映像作品が苦手な理由は恐らく他にもあって、"間"を強制されることはその中でも大きい理由だと思っている。

自身で読み進めていく漫画/小説は、シーンの滞在時間を自分で決めることができる。好きなシーンではわざとゆっくり読み進めて余韻を楽しむこともできるし、目が滑ってしまうシーンは滑らせたまま話半分に早足に進むこともできる。

映像にされてしまうとそれができない。間の取り方を演出や脚本により決定され、それを受け取ることしかできないからだ。その点がすごく苦手だ。特に冗長さを感じる時がつらい。テンポが悪いと言うこともできる。テンポが悪いと感じてしまうと、言葉通り「息が合わない」という感覚になり、わたし向きではないと判断してしまう。そして視聴をやめる。劇場作品は2時間前後という制限があり時間に余裕がないために"テンポの悪さ"が良くも悪くも切り捨てられていることが多いように感じる。この点を好ましく思う人も思わない人もいると思うが、わたしにとってはプラスに働くことが多い。

 

これは特に明確に伝えたいことやテーマがあるわけではなく、わたしは物語を読み取るのが下手なんだよねえというだけの文章である。

特にクール作品だと本当にダメで、よく判らないまま終わっていく。

世間が絶賛していた作品に満を持して触れたものの、なんだかよく判らないまま終わっていった……という経験があまりにも多く、それが悲しいので原因を探してみたがそれもよく判らなかったというだけだ。

ま…マギなどが特にそれで、真面目に鑑賞したつもりだったのだが、よく判らないままによく判らないものが進み、終わった。

感受性が特別弱い方というわけでは無いと思うのだが(割とどんな作品でも、内容を読み取れれば泣くからである)、作者の意図も登場人物の心境もそもそもの物語の状態も何一つ判らないまま終わる作品もある。

 

話が二転三転し、全くまとまっていないが、電子書籍はまじで苦手だ。嫌いではなく苦手。あれで読める人の気が知れない。和解の日は遠い。